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居酒屋百名山 39.こびき 太田和彦著(2008年12月)

銀座、歌舞伎座前の晴海通りを渡り、まっすぐゆくと「こびき」がある。店名はいわずもがな旧町名の木挽町からだ。一階は主人・金子弘一さん夫妻の寿司、二階は長男・大史さんと奥さんの酒亭。厨房には二男・純平さんが父について料理修行。昼はお勤め、夜は店を手伝う孝行娘の有香さんは上下を行ったり来たり。私が二階に来るとお父さんがちょいと顔を出してくれる。

「生まれた?」「いえ、予定は一月です」

尋ねたのは初孫の誕生だ。一昨年長男が美人の嫁をもらい、その奥様・麻紀さん見たさに私はいっそうここに来るようになったが、めでたくご懐妊と聞いた。客で来ていたお嬢さんを気に入って息子の嫁に奨めたのはお父さんだったらしい。息子も歌舞伎座に立たせたいほどの苦み走ったいい男。お父さんは初孫に気が気ではないようだが、きっと玉のような子が授かるだろう。

「こびき」は戦後満州から引き上げてきた先代が昭和二十二年に開店。弘一さんはその開店吉日に二代目長男として生まれたという生まれた時からすでに親孝行だ。銀座生まれ、泰明小学校、麹町中学、都立一橋高校、アメリカ遊学という生粋の銀座ッ子。雑誌「文藝春秋」の「同級生交歓」には泰明小同級の女優・和泉雅子さん、関西割烹「本店浜作」社長、レストラン「グリルスイス」女性オーナー、料亭「花蝶」女将と並び、学級委員だった弘一さんが文を書いている。

 

泰明小学校は昨年開学百三十年の式典を行い、弘一さんも列席した。「小四のとき八十周年をやりましたから、早いものです」と感慨深げ。「お孫さんも泰明小に?」水を向けると「いやあ、どうですか」と満更でもなさそうに頭に手をやった。

「いらっしゃいませ、今日のお魚です。キンキ、アマダイ、ハタハタ、白子…」

産休の兄嫁に変わり、着物で先頭に立つ有香さんが上がってきた。ザルで本日の魚をお披露目するのがお約束。前の新橋演舞場の向こうは築地市場、魚は新鮮ピカピカだ。きれいなタラ白子を焼いてもらおう。酒は秋鹿、宗玄、悦凱陣(よろこびがいじん)、鶴齢(かくれい)など重量級が揃う。外側を炙ったタラ白子は香ばしく、中はとろとろでたまらない。丸顔美人の有香さんがおひとつどうぞ、とお酌をしてくれる。着物の着付けは一分の隙もなく、さすがは銀座の娘だ。

「甥っ子、姪っ子、どっちでもいいが、生まれたらそこの棚に写真飾って欲しいな。客も喜ぶよ」「いいですね、お賽銭箱も置きましょうか」「そりゃいい、たまるぞ。子供にも働かせなくちゃ」

はははは。銀座初孫明神にこんどお賽銭あげにこようっと。

 

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北海道から沖縄まで、その土地に行くとなぜか自然に足が向いてしまう店.....共通するのは、店全体と集う人々が醸し出す居心地のよさだった。地元の歴史や風土、気質まで映すその佇まいに誘われるように、季節を変え時間を変え、通い詰めた特選百軒。いつもの関から眺めて綴る。百店百様の至福のときー。二十余年にわたり居酒屋探求を続けてきた著者渾身の集大成。

 

居酒屋百名山

発行 2016年8月12日

著者 太田 和彦

発行者 佐藤 隆信

発行所 株式会社  新潮社 東京都新宿区矢来町71